「コスト面で十分戦える。多くの部品を自社生産できることが、我々の強みだ」と大村氏は強調する。これは、ニコンがカメラ事業で長年培ってきた光学技術の蓄積が、半導体装置という全く異なる分野での競争力に直結している好例と言えるだろう 。
この低価格攻勢と並行して進むのが、顧客の囲い込み戦略だ。これまで半導体工場(ファブ)がASML製の装置から他社製に切り替える際の最大の壁は、プロセスレシピの再構築やサービスインフラの違いだった。ニコンはこの障壁を壊すため、ASMLの装置エコシステムとの互換性を高めた新型ArF液浸装置を開発中であり、2027年までに大手半導体メーカーへの試作機納入を目標としている 。
さらに、従来型の乾式ArF露光装置の次世代機「NSR-S333F」についても、2026年度中の初出荷を計画。大村氏は既に、米国やアジアの主要半導体メーカーとの商談が大詰めを迎えており、「受注獲得に近づいている」と明言している 。
大村CEOの決断は、単なる野心から生まれたものではない。それは「生き残り」を賭けた、四つの要因が重なった結果だ。
ニコンの半導体装置事業の最大のアキレス腱は、特定顧客への過度な依存だ。大村CEOは「インテル以外では十分な実績がなく、サポート力に対する市場の信頼をまだ得られていない」と率直に認めている 。
2026年3月期下期におけるニコンの露光装置出荷台数は、わずか9台。しかも、その全てが旧世代の成熟ノード向け装置だった。一方、ASMLは2025年通年で327台を販売し、うち48台は1台200億円以上もする最先端のEUV露光装置だ 。この差を埋めなければ、ニコンの装置事業に未来はない。
巨額の赤字見通しと、縮小が続くカメラ市場。ニコンは今、精密機器事業、特に半導体露光装置を復活の柱に据えなければならない瀬戸際に立っている。2026年4月から2031年3月までの新中期経営計画は、まさにこの事業での再起を中核に据えている 。
2024年に発動されたオランダ政府の輸出規制により、ASMLは最先端の液浸装置「NXT:2050i」および「NXT:2100i」を中国へ事実上輸出できなくなった。この影響で、ASMLの中国向け売上高比率は2024年の33%から、2026年には約20%まで低下する見通しだ 。
この規制は、世界最大の半導体市場である中国に、成熟ノード向けとはいえ先端DUV装置の「供給ギャップ」を生み出している。そして、この規制の網に直接かかっていないニコンにとって、このギャップはまさに千載一遇のビジネスチャンスなのだ。
先述の通り、ASMLのエコシステムとの互換性確保は、単なる機能追加ではない。それは、顧客にとっての「乗り換えコスト」を劇的に下げる経営戦略そのものだ。仮に、ASML装置が並ぶファブにニコン製装置を1台追加する際のエンジニアリング負荷がゼロになれば、経営陣の意思決定は「この装置は2割安い」という一点に集約されることになる 。
今回の価格戦争を正確に理解するには、両社の財務規模の差を見れば一目瞭然だ。ニコンはASMLと「戦っている」のではなく、ASMLが独占できない「隙間」を突いているに過ぎない。
ASMLの絶対的強さ
ニコンの厳しい現実
大村CEOの戦略は、EUVでの逆転を狙うような無謀なものではない。それは、ニコンが再び「唯一無二の巨人」になるための戦いではない。**「信頼できる第二の選択肢」**として、半導体サプライチェーンに不可欠な存在になるための現実的な生存戦略なのだ。
中国市場という「ASMLが手を出せない領域」での足場固め、そして、ASML寡占による供給リスクを嫌う欧米・アジアの半導体メーカーの囲い込み。この二つが成功すれば、ニコンの露光装置事業は長いトンネルを抜け出すことができる。
しかし、ASMLにとっては、まだ遠い雷鳴にも聞こえないだろう。ニコンの戦いは、EUVという巨大利権を脅かすものではなく、ASMLの収益全体から見れば文字通り「桁違い」に小さい市場での出来事に過ぎないからだ。
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