しかし、火種を消したと思われた金長官は、ここで終わらずに、はるかに大きな論争の口火を切ることになります。
サムスンのストが回避されたまさにその翌週、金栄薫長官は一連の声明を通じて、よりラディカルな構想を打ち上げました。
韓国型「社会的連帯賃金」:
金長官は、ヨーロッパで導入されている「社会的連帯賃金」の韓国版を議論しようと呼びかけました。これは、大企業が生み出した超過利益の一部を、下請け企業や非正規労働者など、そのエコシステム全体で自発的に分かち合う仕組みです。大企業と中小企業、正規と非正規の間の賃金格差を是正することが目的です 。
「国民配当」:
これは、さらに踏み込んだアイデアです。AI半導体特需がもたらした税収の増加分、あるいは企業の超過利益の一部を、全国民に直接「配当」として還元すべきだというものです。この構想は、もともと大統領府の金容範(キム・ヨンボム)政策室長が自身のSNSで披露したもので、AIによる富は一握りの企業だけの成果ではなく、半世紀以上にわたる国民全体の産業基盤の上に成り立っているという主張が根底にあります 。使い道としては、若者のスタートアップ支援や、地方でのベーシックインカムの導入などが取り沙汰されました
。
これらの提案に対し、金長官は「これは共産主義ではなく、『ステークホルダー資本主義』だ」と明言し、「政府には企業の正当な利益分配に強制介入する権限も意図もない」と何度もクギを刺しました 。飽くまで「社会的対話」を通じた自主的な取り組みを促すための問題提起であり、来るべき緊急フォーラムを、その出発点としたい考えです
。
この提案は、政権内部に深い亀裂を走らせました。金長官の「分配論」に対し、経済官庁のトップたちが公然と反論するという異例の事態に発展したのです。
これは、単なる閣内不一致ではなく、韓国資本主義の未来像をめぐる「分配(福祉)」か「成長(投資)」かの路線対立が、AIという触媒で一気に噴出したものです。今のところ、これらは具体的な政策というより、激しい「言葉の応酬」の段階にあると言えるでしょう 。
飛び火した火種に対し、大統領府(青瓦台)は極めて慎重な対応に終始しました。カン・ユジョン首席報道官は「青瓦台としても、今後フォーラムなどを通じて様々な社会的議論が行われることを期待する」と述べるに留め、金長官の提案に対して明確に賛成も反対もしませんでした。これは、問題を「政策論争」から「国民的対話の呼びかけ」へと巧みに脱政治化する意図があったと見られます 。
そして、この懸念が最もドラスティックな形で表れたのが株式市場でした。5月中旬、金容範政策室長の「国民配当」に関するSNS投稿が海外メディアで「企業への新税導入か」と誤って報じられると、韓国総合株価指数(コスピ)は一時5.1%も急落。AI半導体ラリーに沸いていた時価総額が、一日で数十兆円単位で吹き飛ぶというパニックに陥ったのです(後に「超過税収の活用」という趣旨だったと訂正され、市場は落ち着きを取り戻しました) 。
この騒動を受けてか、サムスン電子自体も素早く動きました。スト回避の合意から間もなく、同社は「今後5年間で総額5兆ウォン(約5000億円)規模の基金を創設する」と発表。これは、協力会社との共生、産業エコシステムの健全化、そして人材育成に投資するためのもので、政府に言われる前に「社会への責任」を果たす姿勢を、先手を打って示した格好です 。もはや、AIが生み出す巨大な富を「誰のために、どう使うのか」という難題から、韓国は逃れられなくなっています。
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