1600年、エリザベス1世の特許状で設立された東インド会社は、当初はアジア交易の独占を与えられた商業組織だった。[3] 1757年のプラッシーの戦いと1765年のディーワーニー取得を経て、会社はベンガル・ビハール・オリッサの歳入を徴収する権利を得た。[8] 会社はインド人兵士セポイを中心とする大規模な私設軍を維持し、インドの税収を軍事と征服の資金に充てた。[4][14]
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研究の答え

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ロンドンの株主にとって、それは配当だった。ベンガルの農民にとって、それは徴税だった。兵士にとって、それは雇い主だった。東インド会社は交易のために生まれ、軍隊、裁判所、徴税権を持ち、数百万人の暮らしを左右する領土支配者へと変わった。12
その物語の出発点は1600年12月31日である。エリザベス1世はロンドンの商人たちに特許状を与え、喜望峰以東の広大な地域との貿易について、イングランドの独占権を認めた。3 最初の目的は主権でも植民地でもない。香辛料だった。危険な航海に資金を出し合い、損失も利益も分け合う――東インド会社は、そうした投資の仕組みとして始まった。
しかし、インド洋世界は欧州人が白紙の地図に描き込む場所ではなかった。ポルトガルやオランダの競争相手がすでに海上交易を争い、インドには強力な国家、洗練された金融網、世界が求める織物産業があった。12 会社船が1608年に到着したスーラトで活動するにも、インド側の許可が必要だった。のちにトマス・ローはムガル皇帝ジャハーンギールの宮廷で交渉し、スーラトに商館を置く権利を得た。
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マドラス、ボンベイ、カルカッタはやがて会社の主要拠点となる。だが初期の商館は、征服の必然を示すものではなく、現地の政治秩序の中にかろうじて確保した足場だった。12 実際、1680年代に会社がムガル帝国と戦った際には敗れ、赦しを請わねばならなかった。
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会社の強みは、ゆっくりと形づくられた。資本を束ねる仕組み、海上ネットワーク、そして本国政府・王権による保護である。恒久的な共同出資制度は1657年に整えられ、のちに競合したイングランドの会社は1709年に統合された。12 これは国家と無縁の「自由企業」ではない。王権の特権こそが、その企業を可能にした。
1707年にムガル皇帝アウラंगゼーブが死去すると、帝国の統制は弱まり、各地の有力者が競り合った。イギリスとフランスの会社はその争いに介入し、軍事力を提供して対立する支配者を支援した。8 東インド会社の前進に不可欠だったのは、インド人の銀行家、商人、政治的同盟者だった。
12 そして何よりセポイ、すなわち主にヨーロッパ人将校の指揮下に置かれたインド人兵士である。会社軍はインド人の募集によって拡大し、その費用はますますインドの歳入で賄われるようになった。
4 征服者は、征服される側の兵士と税によって支えられていた。
決定的な転機はベンガルだった。1756年、要塞化や会社の特権をめぐる対立の後、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラはカルカッタを占領した。ロバート・クライヴは軍を率いて戻り、陰謀を組み立てる。12 1757年6月23日のプラッシーの戦いでは、ミール・ジャアファルらの指揮官が太守への支援を差し控え、有力な金融勢力が政権転覆を後押しした。シラージュは敗れ、ミール・ジャアファルが太守となった。
12 英国の輝かしい勝利として語られがちな戦いは、約束と裏切りによって成立した宮廷クーデターでもあった。
プラッシーはベンガルの財庫への扉を開き、1764年のブクサールの戦いは会社の地位を固めた。会社軍は、ベンガルの旧支配者、アワド、ムガル皇帝を含む連合勢力を破った。8 翌1765年、ムガル皇帝シャー・アーラム2世は会社にディーワーニー、すなわちベンガル、ビハール、オリッサで歳入を徴収する権利を与えた。
8 商人の会社は税を取り、それで輸出品を買い、軍隊を維持できるようになった。
14 税収が征服を支え、征服がさらなる税収を約束する。この循環は強大で、破壊的だった。
その直後、ベンガルは飢えた。1769~1770年には降雨不足と不作が飢饉を引き起こし、苛烈な徴税と不十分な救済が惨事を深めた。死者は数百万人にのぼり、しばしば語られる1000万人という推計にはなお議論がある。12 これは単に天候の問題ではない。収入を吸い上げながら、人びとの生存に対する十分な責任を負わない統治の限界が露わになった。
会社の支配は戦場だけに及ばなかった。代理人は制限的な契約を通じて織物生産者を圧迫し、塩のような生活必需品の独占は収入源となった。12 また会社は、インド洋を横断する奴隷化された人びとの輸送にも関与した。
12 のちには英国の産業競争と帝国の通商体制がインドの繊維生産を打撃したが、その衰退の規模と時期は地域によって異なる。
12 帳簿に記されたのは商品と収益であり、その人間的な代償の全てではなかった。
本国イギリスでは、会社勤務で財を築いて帰国した人びとが「ナボブ」と呼ばれ、軽蔑と警戒の対象になった。それでも個人の富は会社の健全性を意味しない。戦争、負債、金融不安によって会社は1772年、政府に救済を求めた。12 海外では巨大な力を持ちながら、本国では政府に依存する。この矛盾が会社の核心にあった。株主は利益を求め、議会は破綻を恐れた。一方でインドの人びとには、どちらの場にも同等の発言権がなかった。
1773年の規制法は議会による監督を強め、1784年のピット法は政治問題を監督する政府の統制委員会を設けた。12 ベンガル初代総督のウォーレン・ヘースティングズはインドでの行為をめぐって弾劾され、1795年に無罪となった。
8 この裁判は、征服が不正を正当化するのかという問いをイギリス社会に突きつけた。ただし監督の強化は、会社の膨張を止めなかった。
会社の危機は大西洋を越えた。1773年の茶法は、イギリス領アメリカ植民地で会社の茶を売ることを後押しし、独占と課税への反発を招いた。ボストンでは抗議者たちが会社の茶を港へ投げ捨てた。12 帝国の企業を救おうとした政策は、イギリスが別の帝国を失う対立を加速させる一因となった。
インドでの拡張も、決して容易でも自動的でもなかった。マイソールのハイダル・アリーとティプー・スルターンは会社軍に抵抗し、ティプーは1799年、シュリーランガパトナで戦死した。4 マラータ勢力は複数回の戦争を経て1818年までに打ち破られ、シク王国のパンジャーブは戦争の末に1849年に併合された。
4 会社の軍事行動はビルマにも及んだが、1842年のカーブルからの退却は、帝国的野心の破綻を示した。
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征服だけが支配の手段ではなかった。従属同盟では、インド諸侯はイギリスが管理する軍隊を維持させられ、外交の自由を失った。8 土地制度でも、1793年のベンガル恒久地租制度はザミーンダール(地主層)に対する国家の歳入要求を固定し、耕作者の権利を保障しないまま地主の力を強めた。他地域では耕作者や村落共同体を相手にする別の制度が採られたが、共通していたのは税収を求める圧力だった。
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茶は会社を中国とも深く結びつけた。会社は茶の購入資金を得るため、インド産アヘンを民間商人に競売で渡し、中国の禁止にもかかわらず密輸させた。12 アヘン依存と銀の流出は対立を激化させる。1839年、林則徐が広州で取引を取り締まると、イギリスは戦争に踏み切り、1842年の南京条約で港の開放と香港の割譲を得た。
12 これはイギリス政府による戦争だった。しかしその商業体制の中心には、会社支配地で生産されたアヘンがあった。
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そのころには、交易会社としての東インド会社はすでに消えつつあった。議会は1813年にインド貿易の独占の大部分を、1833年には残る商業的役割を終わらせた。12 会社はもはや本来の意味での商社ではなく、イギリス領の行政機構として存続した。
会社統治は国境だけでなく社会も変えた。裁判所、測量、英語教育、鉄道、電信は行政の到達範囲を広げた。8 1829年のサティー(夫の葬儀における寡婦の殉死)禁止には、ラーム・モーハン・ローイらインド人改革者の支持もあった。
8 しかし改革は、人種的な序列、キリスト教宣教の圧力、インド人は自ら統治するに値しないという確信と共存していた。
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総督ダルハウジーのもとでは、会社が養子相続人を認めない藩王国を併合する「失権の原則」が用いられた。ジャーンシーはその一つだった。11 アワドは別の名目――統治の失敗とされたこと――により、1856年に併合された。
11 諸侯は王位を失い、地主層は影響力を失い、兵士たちは故郷が飲み込まれるのを見た。
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ベンガル軍内部では、給与、昇進、勤務条件への不満が、宗教への干渉に対する不安と結びついた。新型ライフル銃の薬包には牛脂と豚脂が塗られていると信じられ、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の兵士にとって耐えがたい象徴となった。2 薬包は火花だった。だが、火薬そのものは長年積み重なった不信だった。
1857年5月10日、メーラトのセポイが反乱を起こし、デリーへ進軍した。そこでムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は、反乱の象徴的な君主となった。蜂起は北インドと中央インドの広い範囲に拡大した。1 ラーニー・ラクシュミー・バーイー、ナーナー・サーヒブ、ベーグム・ハズラト・マハルらが指導者として現れたが、その目的は一つではなかった。また、多くのインド人がイギリス側を支持した。
11 これは単なる「セポイの反乱」を超える出来事だったが、統一された国民戦争でもなかった。
戦闘は恐怖の連鎖となった。反乱側は女性や子どもを含むイギリス民間人を殺害し、イギリス軍は処刑、村落の破壊、苛烈な報復で応じた。1 増援とインド人同盟者を得たイギリス軍はデリーを奪回し、1858年までに主要な抵抗拠点を制圧した。
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会社は戦場では生き残ったが、統治する権限を失った。1858年、議会はインドの統治を会社からイギリス王室へ移した。12 会社は金融上の器としてしばらく残り、1874年に解散した。
12 その終焉は、インドの解放を意味しなかった。イギリスは企業という媒介者を取り除き、会社が築いた帝国を直接引き継いだのである。
東インド会社の遺産は、貪欲さだけを戒める単純な物語ではない。その活動を認可した制度、それを支えた同盟、そして代償を負わされた人びとの物語である。特許状が約束したのは貿易だった。その先に現れたのは帝国だった。会社は消えた。しかし、その帰結は消えなかった。
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1600年、エリザベス1世の特許状で設立された東インド会社は、当初はアジア交易の独占を与えられた商業組織だった。[3]
1600年、エリザベス1世の特許状で設立された東インド会社は、当初はアジア交易の独占を与えられた商業組織だった。[3] 1757年のプラッシーの戦いと1765年のディーワーニー取得を経て、会社はベンガル・ビハール・オリッサの歳入を徴収する権利を得た。[8]
会社はインド人兵士セポイを中心とする大規模な私設軍を維持し、インドの税収を軍事と征服の資金に充てた。[4][14]