パルテノン神殿に意図的な建築上の「整え」がなかった、というのがアラン・ゴリエリーの主張ではありません。主張の核心は、そうした工夫が、歪んで見える建物をまっすぐに見せるための普遍的な光学的「補正」だったと裏づける説得力ある証拠はない、という点です。補正すべきだとされてきた錯視そのものが、存在しないか、通常の見え方では気づけないほど弱いと結論づけています。
3
5
約6センチの反りと約18ミリのふくらみをどう見たのか
研究は、柱台(スタイロベート)の中央部が約6センチ上に反る形状や、柱身の中央部がわずかに膨らむ約18ミリのエンタシスを含め、少なくとも12種類の「錯視補正」説を検討しています。ゴリエリーによれば、それらが打ち消すと説明されてきた視覚的な誤りは、実際には起きないか、一般的な距離・角度からは実用上ほとんど知覚できません。
3
5
また、ひとつの固定された幾何学的調整で、すべての人に同じ視覚補正を与えるという考え方にも無理があります。見え方は観察者ごとに異なり、距離、見る角度、光の状態、頭の向きなどにも左右されます。誰に対しても、どの条件でも同じ錯視を正す単一の設計解がある、という前提自体が疑わしいというわけです。
5
重要なのは、曲線や厳密な規則性からのずれが意図的だった可能性を、この研究が排除していないことです。その目的が何だったのかは、なお分かっていません。批判の対象は、職人技や美的価値ではなく、それらの目的を「錯視補正」と自信をもって決めつける説明です。
5
なぜ「錯視補正」説は定説になったのか
この考え方の知的な源流として挙げられるのが、古代ローマの建築家ウィトルウィウスです。現存する古代の建築文献では、角の柱は周囲の空を背に孤立して見えるため細く見え、太くすべきだという趣旨の記述があります。
5
19世紀には、建築家フランシス・ペンローズが精密な実測を通じ、パルテノン神殿に直線性や均一性からの微妙なずれが実際にあることを示しました。ペンローズはエンタシスについて、まっすぐな柱身が細く、あるいは輪郭が凹んで見えるという「不快な錯視」を正すための中央部の膨らみだと説明しました。
2
つまり、きわめて実在的で注目すべき測定結果に、古くから伝わる魅力的な説明が結びついたのです。ゴリエリーは、建設者の意図を直接示す歴史資料も、補正を必要とする知覚上の問題があったことを示す科学的証拠も不足していると指摘します。
3
5
「古代ギリシャの超人的知性」という思い込み
ゴリエリーがいう「最高知識の誤謬(supreme knowledge fallacy)」とは、古代ギリシャ人を、数学・工学・芸術・心理学のすべてに通じた、ほとんど万能な存在として理想化し、建築のあらゆる例外や不規則さに高度な隠れた意図を読み込んでしまう傾向を指します。
5
さらに、この説は繰り返されることで強化されてきました。一般向け解説や教育の場、そして現在ではAIが生成する回答までが、親しみやすく美しい物語を確信をもって再生産し、一次資料を示さないまま権威ある説明のように見せることがあります。大規模言語モデル(LLM)の出力だけでは、知識としての正当化にはならないという注意は、認識論の研究でも論じられています。
7
研究が促す見方
この研究が求めるのは、よく語られる美しい解釈と、実証された事実とを混同しない姿勢です。建物が実際にどのような形をしているかと、後世の解説者がその形にどんな目的を与えたかを分けて考える。伝統や権威、もっともらしい物語だけでなく、観察と検証を重視するべきだ――それがゴリエリーの方法論的なメッセージです。
3
5