ウクライナのドローン攻撃が引き金か
この異例の緊急移動の背景には、2026年6月6日にウクライナ軍が実行した「前例のない」長距離ドローン攻撃がある。ウクライナ軍は約1,000キロメートルを飛行させたドローン波により、サンクトペテルブルク近郊のクロンシュタットにあるロシア・バルチック艦隊の海軍基地を攻撃した。この攻撃で乾ドックにあった誘導ミサイルコルベット「ボイキー」が炎上し、海軍兵器庫や工廠にも被害が出た。ゼレンスキー大統領はこの作戦を自ら確認しており、ニューヨーク・タイムズはこれを「前例のない攻撃」と評した
。
クロンシュタットはバルチック艦隊の本拠地であり、それまでロシアはこの海域を安全な後方地域と見なしていた。しかし、その牙城がウクライナのドローンに狙われたことで、プーチン大統領の象徴的な所有物であり、推定1億ユーロ(約170億円)とも言われるこのヨットが、もはやバルト海に留まることができないと判断したものとみられる。
目的地は北極圏の要塞、ムルマンスク
船団はノルウェー沿岸を北上し、目的地は北極圏にあるロシア海軍の重要拠点・ムルマンスクとされる。ムルマンスクはウクライナの現有ドローンの射程外にあるとされ、強固な防空網で守られた「安全な避難所」と見なされている。
プーチン大統領は過去にこのヨットを頻繁に使用しており、2021年には黒海でアレクサンドル・ルカシェンコ・ベラルーシ大統領を招いて重要な会談を行ったことでも知られている。しかし、2022年2月のウクライナ全面侵攻のわずか17日前、改装中だったドイツ・ハンブルクのブローム・ウント・フォス造船所から、慌ててロシアの飛地・カリーニングラードへと脱出させている
。これは欧米による差し押さえを恐れての行動とされる。
制裁と改名
侵攻後、米国財務省外国資産管理局(OFAC)は2022年6月2日、このヨットをプーチン大統領が利害関係を持つ資産として制裁対象に指定した。その後、このヨットは艦船名簿上で「Graceful」からロシア語で「シャチ」を意味する「Kosatka(コサトカ)」に改名されており、制裁圧力を回避する試みと報じられている
。
今回の一連の動きは、ウクライナの長距離精密攻撃能力がロシア中枢部の安全保障観をいかに劇的に変えつつあるかを如実に示している。プーチン大統領自らの「動く宮殿」が、自国の艦隊の主力艦に護衛されて北極海へと逃走する—この光景は、戦争の位相が確実に変わりつつあることの強烈な象徴である。