MFN政策は、この新薬が欧州の患者のもとに届くルートを直接的に変えようとしています。イーライリリー社のCEOデビッド・リックス氏は、欧州各国政府からの公的償還(保険適用)を目指す姿勢は維持しつつも、主要な販売ルートは米国と同様の自己負担型の遠隔医療プラットフォームを経由すると明言しました 。これは、従来のように何ヶ月、何年もかかる公的償還の交渉を待つのではなく、まずは民間の現金払いチャネルで販売を開始するという、根底的な戦略転換を意味します。
このメカニズムは明確です。イーライリリー社は2025年8月14日、英国で既存の肥満治療薬「マンジャロ(一般名:チルゼパチド)」のリスト価格を最高用量で最大170%引き上げました(月額122ポンドから330ポンドへ)。これは、トランプ政権からの圧力に応え、米国価格を引き下げるための明確な対応として説明されています 。同社はこれを「各国間の薬価の再調整」と呼び、一連の価格戦略を正当化しています
。
MFN政策の影響は、ファウンダヨ一製品にとどまりません。政策の波及効果は、欧州全域の医薬品エコシステムに構造的な変化をもたらしています。
新薬発売の急減:GlobalDataが2026年3月に発表した分析によると、MFN大統領令以降、欧州での新薬発売が約35%減少しました 。製薬企業は米国の価格基準が下落するのを防ぐため、欧州市場への投入を遅らせる、あるいは高価格帯での販売を選択する傾向が顕著になっています。これは、これまで新薬がまず米国で発売され、その後欧州に展開されるという歴史的なパターンを逆転させるものです。
製品の撤退と投入遅延:同分析では、欧州市場からの製品撤退の増加と新規申請の遅延も確認されています。欧州の低い価格水準では採算が合わない製品が市場から姿を消しつつあります 。
EUの公式調査開始:こうした事態を受け、欧州委員会のステラ・キリアキデス保健担当委員は2026年6月16日、トランプ政権のMFN政策が欧州の医薬品アクセスに与える波及効果について正式な調査を開始すると発表しました。欧州での新薬発売の減少は、EU加盟国の保健大臣の間でも深刻な懸念となっています 。
ISPOR(国際医薬経済・アウトカム研究学会)の警告:2026年5月のISPORの分析レポートは、MFN政策が「欧州全域でのアクセス格差を拡大し、イノベーションへのアクセスを加速するEUの取り組みを損なう可能性がある」と結論づけています 。
欧州の医薬品を巡る環境は、MFN政策という外部からの圧力に加え、域内、特にドイツでの厳しい医療費抑制策という内部からの圧力にも直面しています。
ドイツ政府の強硬姿勢:ドイツの連邦保健大臣は2026年6月12日、製薬企業を「歳出削減策から免除することはない」と明言しました。これは、製薬企業側が「政府が歴史的に支払ってきた以上の金額を支払う用意がない限り、革新的な医薬品を欧州で発売できなくなる」と警告したことへの回答でした 。ドイツ政府は法定健康保険(GKV)システムの急増するコストに上限を設ける法案を推進しています
。
研究開発投資の国外流出:この状況は、欧州最大の医薬品市場であるドイツの魅力を急速に損なわせています。2026年6月のデータによると、ドイツの医療費削減策は「数億ユーロ規模の医薬品プロジェクトの国外流出」を引き起こしています 。具体的には、ドイツの多国籍製薬企業であるベーリンガーインゲルハイム社が2027~2030年に予定していた国内投資額9億ユーロを凍結。イーライリリー社もドイツでの大型投資計画を中断しました
。
「アメとムチ」の矛盾政策:こうした状況の中、ドイツ政府は2024年10月に発効した「医療研究法(Medizinforschungsgesetz, MFG)」を通じて、治験承認手続きの迅速化や規制緩和を進めています 。さらに注目すべきは、国内で臨床試験を実施した企業に対して薬価交渉で優遇措置(秘密リベート)を与えるという制度を導入したことです
。これは国内での研究開発を促進するための「アメ」ですが、医療費削減という「ムチ」の効果を打ち消すには至っていません。
患者アクセスへの複合的影響:MFN政策による投入遅延に加え、ドイツのコスト削減策が重なることで、欧州の患者は新薬へのアクセスで二重の困難に直面しています。薬が発売されても、公的保険による償還ではなく、自己負担の民間チャネルでのみ入手可能となるケースが増えています 。
Comments
0 comments