数値上の問題だけではありません。気候政策の専門家は、この仕組みが持つ根本的な欠陥も指摘しています。
「不十分」評価と公正性の欠如
独立系研究プロジェクト「気候アクショントラッカー(CAT)」は、EUの気候変動対策を1.5℃目標に照らして「不十分(Insufficient)」と評価しています 。欧州気候変動科学諮問委員会(ESABCC)は90~95%の「域内」削減を推奨していましたが、EUは最も低い目標値を選択し、しかも海外クレジットに頼る道を開きました
。CATはこのクレジット制度を「議論を呼ぶ抜け穴」とし、EU域内での「真に野心的な削減」を遅らせる危険性を警告しています
。
制度設計の不備
エコ研究所は、もし計画通りのクレジットが確保できなかった場合でも、それでも「90%」という目標値達成を担保するメカニズムが法律に存在しない点を重大なリスクとして挙げています 。つまり、達成できなければそれまで、という穴があるのです。
グリーンウォッシングと化石燃料依存の継続
CMWは、こうした相殺(オフセット)への依存はEUを「財務面、気候面、そして評判面でのリスク」にさらすと主張します。具体的には、グリーンウォッシング(見せかけの環境対策)という批判を浴び、域内の化石燃料生産が続く構造を固定化してしまう恐れを指摘しています 。このため、150以上の市民団体は目標からの国際クレジット排除を求める書簡を送っています
。
こうした批判に対し、ドイツのピーク気候影響研究所(PIK)の研究チームは2026年6月、議論の枠組みを根本から変える提案を発表しました。オットマー・エデンホーファー教授らが提唱するのは、プロジェクト単位のオフセットではなく、**「管轄権報酬基金(Jurisdictional Reward Funds)」**の創設です 。
仕組みはこうだ
EUは個別の炭素クレジットを購入するのではなく、発展途上国や新興国に対し、国や地域単位(管轄権)で実証された排出削減の成果に対して報酬を支払います。特に重点を置くのは、石炭火力のフェードアウトと、石油・ガス生産の抑制です 。支払いは実際に削減が確認された後に行われる、いわば「完全成果報酬型」です。これは、安価で実効性のないクレジットが真の削減努力を駆逐してしまう従来のオフセット市場の「逆インセンティブ」を回避するための設計です
。
投資としてのコストとリターン
PIKの試算によると、このスキームに必要なコストは年間約110億~140億ユーロ(2050年までの累計で4000億~5000億ユーロ)です。これはコストではなく「投資」と位置づけられます。なぜなら、気候被害の回避と化石燃料輸入への依存度低下によって、約2兆ユーロの利益が生み出されると試算されているからです 。
地政学的なうま味
この提案は地政学的な文脈で明確に語られています。海外の化石燃料生産の廃止に資金を出すことは、ロシアをはじめとする産油国の収入を直接的に減らし、欧州のエネルギー安全保障を強化する行為だというわけです 。PIKは、これはまさにEU自身の利益のための行動だと強調します。
決定的な相違点
ここが現行法との最も大きな違いです。PIKのモデルは、あくまでEUが地球規模の課題解決のために行う「補完的な気候資金」のメカニズムです。途上国への真の資金移転であり、EU域内の排出削減の「肩代わり」としてカウントすべきものではない、というのがほとんどの支持者の立場です。対して現行法は、まさにその「肩代わり」を許している点が批判されているのです。
今後のルール策定を左右する中心的な緊張関係は明確です。それは、この「柔軟性」が欧州自身のエネルギー転換を先送りにする単なる「会計上のごまかし」に終わるのか、それとも世界的な脱炭素化を本気で加速させるモデルへと改革できるのか、という点です。
CATの厳しい評価が一つの試金石となるでしょう。「EUは依然として、その『公正な分担』への貢献で大きく遅れをとっており」、自らの義務をオフセットするだけでなく、海外での削減を実質的に支援する努力を大幅に増やす必要があるとしています 。
PIKの提案は、まさにそれを実現するための、具体的でコスト計算もされた一つの道筋を示しています。政策立案者がこれを採用するかどうかが、この「5%」が創造的リーダーシップの象徴となるか、それとも欧州の気候変動対策における信頼性に消えない傷を残すのかを決定づけるでしょう。