この不安定な均衡は、時間稼ぎにはなったものの急速に枯渇しつつある、脆弱な「緩衝材」の上に成り立っています。米国とその同盟国は利用可能な供給手段を総動員し、減速する世界経済は需要を破壊するという厳しい現実をもたらしました。その結果が「95ドルの天井」ですが、これが構造的に健全だと考える専門家は誰もいません。
1. 記録的な米国の原油輸出が市場に溢れている
米国の原油輸出量は2026年5月に日量560万バレルと過去最高を記録し、4月に達成したばかりの520万バレルという記録を塗り替えました 。その増加の速度と規模は驚異的です。米国の原油・石油製品の総輸出量は日量1290万バレルに一時的に達し、原油のみの4週間移動平均も5月下旬には日量557万バレルに達しました 。ピーク時には、週次データで輸出量が日量644万バレルに達し、米国は第二次世界大戦以来初めて原油純輸出国の地位に近づきました 。
最大の買い手はアジアで、5月には前例のない日量245万バレルを記録。韓国だけで過去最高の日量110万バレルを輸入しました 。欧州の製油所も積極的に購入し、オランダは日量68万6000バレルを輸入しました。この輸出の奔流は、メキシコ湾岸のインフラの物理的限界に迫りつつあります。トレーダーやアナリストは、現在のパイプラインとターミナル能力では、米国が輸出できるのは最大で日量約600万バレルと推定しています 。
2. 高油价の重圧で世界の需要が崩壊している
国際エネルギー機関(IEA)は、2026年の世界の石油需要が前年比で日量42万バレル減少すると予測しています。これは、急騰する価格、減速する経済成長、そして広範囲にわたる航空便の欠航が直接の原因です 。ホルムズ海峡経由の原油の約3分の1を調達していた中国も、供給不足に屈してはいません。むしろ、中国経済の減速が、供給が最も逼迫しているこのタイミングで、輸入意欲を減退させているのです 。
この需要破壊は残酷ですが、効果的な安全弁です。しかし、日量42万バレルの減少といえども、日量数百万バレル規模の供給ギャップを埋めることはできません。
3. 海峡は完全には封鎖されていない
イランは水路での制限付き通過を一部許可しており、域内の産油国は緊急用のパイプライン迂回ルートを稼働させています。紅海のヤンブー港まで至るサウジアラビアの東西パイプライン(輸出能力は日量約500万バレル)は、極めて重要な安全弁となっています 。リスタッド・エナジーのアナリストは、サウジとUAEが湾岸外で終端するパイプラインシステムを通じて、合わせて日量500万~600万バレルを輸送できると推定しています 。
また米国は、海上に滞留する在庫へのアクセスを維持するため、イランとロシアの海上輸送に対する制裁の一部を一時的に緩和しています。ただし、これらの免除措置は2026年6月末に期限切れとなる見込みです 。
4. 戦略備蓄が記録的なペースで放出されている
IEAが3月11日に発表した4億バレルの協調放出は、ピーク時の供給遮断率で約30日分の緩衝材となりました 。米国はその後も一方的な放出を続けており、世界中で民間在庫も積極的に取り崩されています。戦略石油備蓄(SPR)の放出、民間在庫の取り崩し、緊急パイプラインの迂回を組み合わせることで、約130日分の緩衝材が生み出されました。しかし、この緩衝材は有限であり、危機が続く限り、毎週浸食されていきます 。
2026年6月6日に開催されたサンクトペテルブルク国際経済フォーラム(SPIEF)のエネルギーパネルで、ロスネフチのイゴール・セチンCEOは「始まりの終わりか、終わりの始まりか?」と題した基調講演を行いました 。彼のメッセージは極めて厳しいものでした。
セチンCEOは、ホルムズ海峡が封鎖されてから17週間が経過した今、世界の流通から脱落した日量約1600万バレルの石油を補える国は地球上に存在しないと強調しました 。彼は二つのシナリオを提示しました。
またセチンCEOは、ホルムズ海峡の緊張が長引くことで、供給の信頼性に対する信認が損なわれ、「長期的な石油需要が損なわれるだろう」と警告しました。これは、代替エネルギー源への関心を加速させる可能性のある力学です 。彼はこの海峡封鎖を、米国の利益のために世界のエネルギー市場規制を再構築しようとする試みであると位置づけました。その一方で、ロシアは広範な市場状況にかかわらず、中国とインドへの安定した石油供給を保証すると明言しました 。
IEAの元事務局長である田中伸男氏も、セチンCEOやウズベキスタンのエネルギー大臣と共にパネルディスカッションに参加しました 。パネルでは原油価格のリスクについて幅広く議論されましたが、入手可能な議事録には、田中氏が「1バレル170ドルへの急騰」シナリオに具体的に言及したという記述はありません。その価格リスクの数値は、後述するように、パネルでの直接の発言というよりも、より広範なアナリストのモデルから浮上したものです。
IEAによる390万バレルの衝撃的な供給不足予測
IEAの2026年5月の石油市場レポートは、劇的な修正を示しています。これは、ホルムズ海峡の流動性が6月から徐々にしか回復しないと仮定した場合、世界の石油供給が2026年通年で平均日量390万バレル減少すると予測しています 。これは、以前の予測である日量150万バレルの減少の2倍以上です 。
現在、約1050万バレルの湾岸生産がオフラインとなっており、湾岸産油国からの累積的な供給損失はすでに10億バレルを超えています。これにより、IEAは2026年の世界需要に対する供給不足を日量178万バレルと予測しています 。これは、従来予想されていた日量41万バレルの供給過剰から一転したものです 。
在庫は極限的で持続不可能なストレスに晒されている
IEAは、SPRの放出と民間在庫の取り崩しは「部分的かつ一時的な解決策」に過ぎないと警告しています 。先進国の在庫は記録的なペースで枯渇しており、ホルムズ海峡が封鎖されたままの状態では、これを補充する明確なメカニズムは存在しません 。
1バレル170ドルへの「テールリスク」
もし海峡封鎖が現在の基本シナリオの想定を超えて継続する場合、あるいは緩衝要因(米国の輸出能力、SPRの利用可能性、中国の需要減退)のいずれかが機能不全に陥った場合、急激な価格高騰のリスクは依然として深刻です。ダラス連銀は、3四半期にわたる封鎖で132ドルを想定していましたが、より深く長期にわたる封鎖は、予測をはるかに高い水準へと押し上げます 。5月下旬に発表された別の悲観シナリオ分析では、ブレント原油がピーク時に約140ドルに達し、120ドル超の水準が長期間続くと予測されました 。
核心的な脆弱性はこれです。市場は、根本的な供給ギャップが縮小するよりも速く枯渇しつつある「一時的な緩衝材」に依存してきたということです。米国の記録的な輸出量は、物理的なインフラの限界に達しつつあります。戦略備蓄には限りがあります。中国の需要破壊は一回限りの調整であり、繰り返し利用できる安全弁ではありません。これらのいずれかが機能不全に陥れば、95ドルは天井ではなく、新たな底値となります。セチンCEOが指摘したように、楽観的なケースでさえ、完全な正常化は2027年の話なのです 。