火消しに奔走しただけでなく、TSMCは構造的なコミットメントも迫られた。匿名で内部告発や不満を集約する仕組みを通じて社員が団結し始めていたことを受け、会社側は賞与の伸び率を加速させる方針を約束したのだ。この動きは、同社の生産額が台湾の総輸出額の15%以上を占めるという、労働力が持つ特異なレバレッジを改めて認識させるものだった 。
ことの発端は会社からの公式発表ではなく、5月下旬にSNSで拡散した根拠のない主張だった。噂の核心は、TSMCの標準的な社員が受け取る年間約264万台湾ドル(約82,000米ドル)の業績連動賞与が、最大15%カットされるというものだった 。この話が強い心理的打撃を与えたのは、TSMCの財務状況とのあまりにも明白なコントラストゆえだ。
噂が流れるほんの数週間前、TSMCはNvidiaやAppleからの底知れぬAI半導体需要に牽引され、2026年第1四半期に純利益5,724億8,000万台湾ドル(約178億米ドル)を叩き出したばかりだった。これは前年同期比で実に58%の急増である 。
この知らせに接した社員の反応は激しいものだった。社員たちは経営陣の「誠実さの欠如」を非難し、「株主の利益のために社員を犠牲にしている」と痛烈に批判した 。怒りに拍車をかけたのは、かねてより悪名高い過酷な労働環境への不満だ。「金をカットするなら、夜間や週末のTeams(マイクロソフトのコミュニケーションツール)の電源を勝手に切ってもいいですよね?」という痛烈な皮肉が、現場の疲弊感を象徴していた
。
ストライキを呼びかける声は、単なる不満の捌け口ではなかった。それは、半導体業界のもう一つの巨人、サムスン電子での労働争議に直接触発されたものだった。当時サムスンは新たな組合の下で大規模なストライキを経験しており、肝心の賃金協定の投票日が5月27日に迫っていた。TSMCの一部社員はこれを注視しており、「27日が勝負だ」「ストライキを起こしたら違法なのか」「もうやるべきだ」といった投稿を繰り返した 。
しかし、このストライキの呼びかけは、決定的な構造的障害にぶつかる。TSMCには正式な労働組合が存在しないのだ。これは集団行動を複雑にする一方で、会社側に給与交渉のための公式な窓口が存在しないことも意味している 。
この騒動で明らかになった本質は、TSMCが「けち」になったということではない。前例のない規模のキャッシュを、どのように戦略的に配分するかという問題だ。TSMCは巨額の利益をただ蓄えているのではない。半導体業界史上最も野心的な工場建設キャンペーンのまっただ中にいるのである。
2026年1月、TSMCは市場を驚愕させた。同年度の設備投資額を過去最高の520億~560億ドル(約5兆円~5.6兆円)とガイダンスしたのだ。これは2025年の409億ドルから30~40%の増加である 。この支出の大部分(約70~80%)は、AIとハイパフォーマンス・コンピューティング向けの「飽くなき」需要に応えるべく、3nmや2nmといった最先端プロセス技術に充てられる
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このカネの使い道は、以下のような前例のないグローバルな建設ラッシュとして、物理的な形をとっている。
これこそが、今回の賞与騒動の核心にあるトレードオフである。韓国の主要紙・朝鮮日報の社説はこの力学を簡潔に表現し、TSMCが「12の新たなグローバル工場への資金を捻出するために、社内の報酬統制を強化した」と喝破した 。魏CEO自身も決算説明会で、この巨額投資について「非常に神経質になっている」と、経営側の本音を吐露している
。
過酷な工場環境で働くエンジニアからすれば、会社が5兆円を超えるキャッシュフローを世界中の工場のためのコンクリートや鉄鋼、最先端のリソグラフィ装置に注ぎ込み、自分たちの日々の労働の対価であるボーナスを減らす(という噂が流れた)ことは、耐えがたい不公平感を生んだのだ 。
株価も社会的なプレゼンスも急上昇するTSMCの社員たちは、AI特需の果実を、目に見える形で、増え続ける形で求めるようになっている。しかし、設備投資という重い義務は、「今日の利益を生み出す労働力に報いること」と、「明日の覇権を担保する生産能力に投資すること」との間に、避けがたく、そして永続的な衝突をもたらす。2026年5月、魏CEOの個人的な介入によって一時的に沈静化したこの緊張は、もはや異常事態ではない。世界で最も地政学的に重要な企業に定着した、新たな常態なのだ。